書き手の視点で仮面ライダーゼロワンの失敗を考える

日常

仮面ライダーゼロワン、第二章が完結した。
長きに渡ったお仕事五番勝負は結果的にZAIAエンタープライズ日本支社長の天津垓が勝利、飛電インテリジェンスは買収され主人公の飛電或人は社長の座を追われることとなった。
……うん。
長かった。
あまりに長い戦いだった。あまりに犠牲の大きい勝負だった。物語上での話ではない、視聴者の心の問題でだ。
冗長でストレスフルな展開。天津垓の理不尽な無双。中身のない発言を繰り返す主人公。カッコいい不破さん以外の殆どがひたすらに批判され続けたワンクールだった。客観的に見て、そう判断出来るのではないだろうか。『得るものが多い』とか製作陣は言っているがクソクソのクソである。

だがしかし。
視聴者ではなく、一人の物書きとしてこのゼロワンの第二クールを考え直してみると、納得のいく部分も多いのだ。何故お仕事五番勝負はこんな惨状になってしまったのか。それを今回は考えてみようと思う。

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お仕事五番勝負で書きたかった展開

自分、クイックサレンダーは、自分で言うのもなんではあるが、人より小説をちょっと書き慣れたやつである。もちろんプロなどではないのだが、それなりに二次創作やら何やら書いてきたし、このブログの企画であるノベルゲー製作にもライターとして関わることにさせていただいている。
で。そんな経験を積んでいると、ちょっとした特殊能力が身に付いた。即ち、ドラマを見ながら『あっ今脚本家の筆ノってんな?』と悟る力である。……仰々しく言いはしたが、つまりは勘だ。人々の台詞の密度、台詞のテンション、話の流れ等を、自分が話を書いている時の経験と照らし合わせて考える書き手の勘である。女の勘みたいなもんである。

ではゼロワンで最も筆がノっていたと感じたのはどこかと言うと。

第28話『オレのラップが世界を変える!!』終盤、或人がZAIA派の民衆に囲まれ四面楚歌状態になっている瞬間である。
お仕事五番勝負で描きたかった展開とは、つまるところここなのだ。現れた強大な敵ZAIA、ヒューマギアを敵視する民衆、絶体絶命の或人。この構図こそ、描きたかったものなのだ。

いや、分かるよ。だって絶対楽しいもん、周囲が全部敵になってる時の絶望感を演出するの。そんなの楽しいに決まってるじゃん書き手は。

書き手の快感、読み手の快感

書き手が思う楽しい展開と読み手が思う楽しい展開というのは、実は全く違うものである。いや本質は同じなのだが、快感を得るポイントが違う。
まあ諸々の例外を放り出して端的に言うと、書き手は主人公を苦しませて楽しみ、読み手は主人公がスッキリする様を楽しむ生き物なのだ。
なんでそうなるかというと、これは当たり前と言えば当たり前なのだが、『既に書き手はスッキリしているから』である。

物語を作る段階で、書き手は最初に第一話の情景描写を考え始めたりしない。物語を書きたいと思うとき、最初に思い付くのは大体山場のトップである。それはあるいは敵との決戦であったり、全てが解決するラストだったりする。そしてその山場へと至るための道筋を逆算していくのだ。
とすると、書き手はもう早い段階で、読み手が求めるスッキリを頭のなかに獲得しているわけである。既にそのスッキリがあるからこそ、そこへと至るカタルシスを増すために主人公をドン底へと叩き落とし、それが解放される時を脳内でつまみ食いして興奮するのだ。書き手はいつでも起承転結を行き来してラストシーンの快感に浸れるが故に、そこへと至る道筋に苦難を持っていくのだ。
ことゼロワンのメインライターである高橋悠也は、場面場面を先に思い浮かべて、その間を繋げていくスタイルの書き手なのだろう。だからこそ印象的なシーンは多かったし、逆に場面の繋ぎである或人の主張や天津垓の行動の整合性は軽んじられたと思われる。

だから断言できる。
ゼロワンはここから視聴者目線で面白くなる。既に高橋悠也の頭の中は、サウザーをブチのめすゼロワンでいっぱいで、ようやくその脳内ビジョンがテレビに映る段階がやってきたのだから。

つまり、仮面ライダーゼロワンの失敗は、既に結末を知っている高橋悠也を初めとする製作陣が視聴者の視点を忘れてしまったことなのではないだろうか。

仮面ライダーを4コマに落とし込む

仮面ライダーゼロワンの失敗は視聴者の視点を忘れてしまったことである。視聴者にドラマがどう見えているかを見失ったからこそ、天津垓は延々と無双したし、お仕事五番勝負は苦痛だったのだ。
しかしこの状況が発生するのは、テレビドラマという特異な環境のみである。

考えてみて欲しい。ワンクールとは、つまり話の4分の1である。物語の前半の半分が曇らせに使われる小説。30分主人公が困難に追い込まれる2時間映画。……別に普通ではないか?

起承転結、という考え方がある。日本においては、物語を作る上での基本とされている考え方だ。4コママンガなんかが分かりやすいだろう。物語を4分割する考え方は、日本では馴染み深い。
では、仮面ライダーの1年の物語を、ワンクールを1コマとして4つのコマに落とし込むと、どうなるだろうか。残念ながら画力はないので、文章で失礼する。

仮面ライダージオウ

1コマ目
ソウゴ「俺は魔王になる!!」ジオーウ!!
ゲイツ「なんだコイツ!?」ゲイツ!!
ツクヨミ「なんだコイツ!?」
ウォズ「我が魔王……」

2コマ目
黒ウォズ「我が魔王……」
ソウゴ「魔王に近づいてるぞ!!」ジオーウⅡ!!
白ウォズ「我が救世主……」ウォズ!!
ゲイツ「なんだコイツら!?」ゲイツリバイブ!!

3コマ目
ゲイツ「コイツ変だけどいいやつ!!」
ソウゴ「ゲイツもウォズもズットモ!!」
ウォズ「我が魔王……ゲイツくん……」
3人「「「合体!!」」」トリニティ!!
ツクヨミ「なんだコイツら!?」

4コマ目
ラスボス「ふんっ!!」
ゲイツ「ぐはぁ!!」
ツクヨミ「ぐはぁ!!」
ソウゴ「ゲイツが死んだ!! 魔王になって世界を作り直す!!」オーマジオウ……

仮面ライダーエグゼイド

1コマ目
飛彩「患者に肩入れするな」ブレイブ!!
大我「ゲームを楽しもうぜ」スナイプ!!
永夢「なんだコイツら!? でも貴利矢さんはまだマシかな」エグゼイド!!
黎斗「闇に追放してやる……」ゲンム
貴利矢「ぐはぁ!!」

2コマ目
永夢「よくも貴利矢さんを!!」マイティブラザーズ!!
黎斗「ブェハハハ!! 私のゲーム最強!! ……ぐはっ!?」
パラド「黎斗ウザいわお前、ゲームはオレが引き継ぐ」パラドクス!!

3コマ目
正宗「私こそがゲームのルール……」クロノス!!
パラド「ぐはぁ!!」
永夢「なんだコイツ!?」
黎斗「復活したぞ!! ……パパ……!?」

4コマ目
永夢「チーム医療でお前を倒す!!」
飛彩「倒す!!」
大我「倒す!!」
貴利矢「倒す!!」
黎斗「倒す!!」
正宗「ぐはぁ!!」

……うん。
もちろん4コマに落とし込む試みであるので、大体省いているのは当然である。しかしまあ、最小限の物語は、こんな感じなのでは、ないだろうか。……多分。
そしてゼロワンは同じように2コマ目まで作ると、こうなる。

仮面ライダーゼロワン

1コマ目
或人「社長になった!! ヒューマギア広める!!」ゼロワン!!
不破「ヒューマギアはクソ!! ……いややっぱ悪くないな……」バルカン!!
滅「アークの意思のままに人類滅べ!! ぐはぁ」
迅「滅べ!! ぐはぁ」

2コマ目
垓「ヒューマギアはクソ!! ZAIA最強!!」サウザー
或人「ZAIA……なんて強さだ……」
滅「ZAIAクソ!! 人類クソ!!」
民衆「ZAIA最強!! ZAIA最強!!」

……こうして極限まで簡略化すると、割りと普通に見えてくるのではないだろうか? 当然、まだ見えない下の2コマで解決する前提で、の話だが。
何が言いたいかというと、つまり、『物語の4分の1で主人公が苦しんでいること自体は問題ではない』ということだ。それがテレビドラマでない限りは。テレビドラマという媒体でそれを行ったことこそ問題なのだ。
何故なら、テレビドラマはその性質上、纏めて観ることが不可能だからだ。
例えば小説でゼロワンの物語が発表されていたとしたら、誰も不満は言わなかっただろう。どれだけ苦しい展開が続いても、一切の待ち時間なしにその展開を読み終え、次の解決編に進むことが出来るからである。しかしテレビドラマはそれができない。一週間のうちの日曜朝、30分だけ進むストーリー。それは即ち、167時間半の間はストーリーが進まないということを示す。テレビドラマは、極限まで冗長な媒体なのである。
Wiki調べで悪いが、ゼロワンのメインライターである高橋悠也が世に出した処女作は、『僕といつかのパラレルワールド』、小説である。だからこそ、小説のノリでテレビドラマを書いてしまったのではないだろうか。それがゼロワンの失敗を招いたのではないだろうか。

167時間半との闘い方

では、どうすればテレビドラマで主人公を曇らせられるだろう。……曇らせないという選択肢もなしではないが、物語が単調になってしまうし、何より書き手のモチベーションに関わるのでそれについては考えないことにする。

答えは簡単で、既に高橋悠也自身以前ライターを勤めたエグゼイドで行っている。物語に変化をつけ続けることだ。
エグゼイドにおいては、定期的に敵陣営が変わり、味方が裏切り敵が味方になりラスボスがすげ替えられ、毎週状況に何かしらの変動が起こっていた。これが起こっていることで、167時間半の冗長さを忘れさせることができる。それをしなかったから、ゼロワンは冗長さを払拭できなかったのだ。天津垓をボコボコにする展開が必ずしも必要な訳ではない。物語に動きがあったのなら、それで不満は解消できたはずなのだ。
30ページごとにラスボスが変わる小説は、きっと不評を買うだろう。しかしテレビドラマは、それが必要な媒体なのだ。

結論

自分は、今作における脚本の失敗を、視聴者にとっての時間感覚を忘れたこと、視聴者の視点を忘れて変化を加えるのを忘れたことだと考える。こればかりはもうどうしようもない。放送されてしまったのだから、流した電波を引き戻すことは出来ないのだ。
しかし、もう苦しいパートは終わったはずだ。ここからはきっと、製作陣がつまみ食いして気持ちよくなっていただろうパートに突入する。それを視聴者が味わい終えた時、きっとゼロワンは駄作の評価からマシになるはずである。
……お仕事五番勝負自体の悪名は、もうどうしようもないだろうが。

うん。
つまりこの記事で何が言いたいかというと。

ランペイジバルカンガシャ60連目で2枚抜きしましたっ!! 不破さん最強!! 不破さん最強!!

参考文献
https://www.tv-asahi.co.jp/zero-one/

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