また自分好みの映画に出会ってしまった。正しくは昔観た朧気な記憶を辿ったわけだけど、今回は大当たりだ。
邦題は『ミスト』。2007年の作品で監督はフランク・ダラボン。原作はスティーブン・キング。
大枠は分かりやすいパニックホラーもの。大嵐の去った後、買い出しのため車でスーパーマーケットへ向かったデヴィット・ドレイトンと息子のビリー。そこで街中を霧が覆い、様々な怪物が出没するようになった。
まず、予算の使い方はとても上手いと印象を受けた。多くのシーンはスーパーマーケット内で完結し、内外の恐怖を軸に物語が進む。霧による情報量の抑制が違和感なくマッチしている。
正直モンスターは並といった感じだ。造形は丁寧でグロいが、如何せんCGっぽさは強く感じる。『エボリューション (2001)』のエイリアン造形を想起させられた。序盤の「霧の中に何かがいる」という未知への恐怖に対し、触手や巨大虫といったイメージしやすいものに変換された点が原因だとも思う。この点は『ハプニング (2008)』の方が奇妙で好みかもしれない。
スプラッター映画の定番で、モンスターを信じずに外に出ようとする、孤立して襲われる、過激派が生まれるといったありがちな展開も多い。
それでも圧倒的な個として成り立つのは描写の丁寧さ故だ。
基盤として嵐と霧が大きな閉鎖空間を構成している。昨日の嵐で通信ができず、霧によって状況を読み取れない。この2要素だけで平常心を失わせ、主張の説得力よりも関係性の背景が色濃く出る。
弁護士のブレントが「触手の怪物が出た」という話に耳を貸そうともしなかったのは彼の人種や出身の影響が強い。
一夜目の襲来は面白く、ライトによって巨大虫が集まってくる。窓際で「ライトを消せ」と叫んでも事態を把握していない棚奥ではライトを点けてしまう。「何かあったらライトをつける」という対策が逆に働いていたのはパニック状態で状況判断より取り決めが行動されたのが要因だったり。単にパニックが危険な状況を作り出すことにも理由があって飲み込みやすい。
とはいえ息子の「モンスターに殺させないで」という約束は丁寧すぎる気もするが。
個人的に好きなのはスーパーマーケットからの脱出時、店員のオリーが宗教で皆を煽動するカーナディに2発も弾丸を打ち込んだことだ。1発目で腹部、2発目で脳天を撃ち抜いている。無力化が目的であれば1発で十分だろう。弾が貴重な状況下で2発目を打ち込んだのは明確に故意であったことを示している。「死ぬべき人物」として認識された結果であり、後の悲劇の予兆でもある。
最後、車に乗った5人はガソリンが尽きるまで霧の終わりを目指す。結局霧は晴れることなく車は止まってしまい、外にはモンスターの鳴き声がする。「やれることはやった」「喰い殺されるなら楽に死にたい」と拳銃による死を覚悟するものの弾は4発しかなく、デヴィットは息子含めた4人を銃殺する。
絶望したデヴィットは自死することもできず、モンスターに自らを差し出そうと霧に包まれる車外に出て叫ぶ。その時、音とともにやってきたのはモンスターではなく軍用車両、助かった者たちは荷台で保護されていた。軍によってモンスターは焼き払われ事態は沈静化し、霧が晴れる中デヴィットの叫声で物語は幕を閉じる。
このオチの何が凄いって先の見えない絶望ではなく、希望が見えてしまったことが絶望に繋がる点。相反する要素に一貫性を持たせている。
鬱だ。先の事よりも後悔によるダメージはでかい。「あの時こうしていたら」「あと少し早かったら」といった考えが駆け巡る。これは結果論でしかない。
万人が救われないならまだいい。救いはある、ただ個人が、主人公が救われない、自ら救えなくしてしまったというミクロな展開に落とし込んだのは見事としか言えない。
安易に生存は肯定と受け取れる。生き残った者が正しいといった見方だ。しかし本作においては運、強いて言うなら諦めたか否かが焦点だ。序盤で子供の元に帰ろうとスーパーを出た母親は家族で生き残ったが、「正しい」訳ではない。煽動されたとはいえ青年兵殺しに加担しスーパーに残った人々の安否は描かれない。
僕らへの投げかけは「あなたならどうする」「先に何が見えるか分からない」といったものか。後者は物語のオチに対して前向きに取ることもできる。
『ミスト』というタイトルを掲げ、霧の「先が見えない」といった特性を物語の恐怖演出だけでなく、希望も絶望も等しく見えないといった状況にも反映し昇華させた。
ああ鬱鬱。クソ好み。
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