どうも、積雲です。普段は自主制作アニメを作っています。
先日8月28日に同じく自主制作アニメを作っていらっしゃるめいにーさんが『サマーブルー』という自主制作アニメを公開したので、映画好きのブログメンバー4人に紹介し、語り合う会を開きました。
作品はこちら。
というのは建前だ。なぜわざわざ普段自主制作アニメを見ないような映画好き4人を呼んで感想を語らせ、記事を執筆しようと思ったか、という動機から語っていく。
労いと感想が不可分な現状
自主制作アニメを作るのは大変な労力を要する。特に本作のように映像だけではなく声や音響、音楽などを全て入れ込んだ作品ともなれば、完成させるためにかかる時間や手間暇が膨大なのは想像に難くない。
故に、作品が完成し、公開され、それを見た人々は作者を労う。それ自体は作品や作者に敬意を示す行為だし、当たり前のことだと思う。
問題なのは、労う気持ちが先行するがゆえに、それが作品に対する自分の率直な感想を作品に好意的な方向に捻じ曲げてしまうこと、あるいは作品をしっかりと読み取ろうとする姿勢を妨げてしまうことである。その結果誕生するのが『労い感想』だ。
この問題は本作に対する反応に大きく表れていると思う。YouTubeのコメント欄やツイッターのハッシュタグ#サマーブルーなどを見れば、『労い感想』と呼ぶべきものにあふれている。例えば『泣きました』『感動しました』『内容が濃かった』『いろいろ思いが詰まっていると感じました』など。
作品に対して肯定的な感想がほとんどを占めていることは良いことのように思える。しかし、このような『労い感想』はそういったコミュニティーの外から作品を見る人のノイズになりかねない。コミュニティーの外から来る観客は、作品がどれだけの労力をかけたか、制作人の熱意がいかほどかなどは全く気にせず、純粋に映像作品として本作を見るだろう。『労い感想』はそうした人々からすれば熱烈なファンが脳死で作品をよいしょしているように見えるかもしれない。今回の感想会参加者にもそう感じる人がいた。
僕はそんな空気に嫌気がさしたので、ツイッターでは純粋な感想を呟いた。めいにーさんもRTしてくださった。
タイムスリップモノだが、私はこの作品のテーマは最新技術によって不自由ない生活を当たり前に享受する私たち現代人への皮肉であると思う。「僕」は「君」にスマホの万能性をアピールするが、いざ自然災害の前には無力であった。 https://t.co/XeR6g36eZt
— 積雲 (@sekiun_creation) August 29, 2021
しかしこの感想もやや『労い感想』に寄ってしまった感があったし、作品の描写に対する整合性も取れていなかったので、今回の感想会を開くことにした。
本記事は、コミュニティー外の観客としてブログメンバーの映画好き4人を集め、『サマーブルー』の『労い』を抜きに『感想』を語ること、そしてそれを世に放つことを目的に行うものである。
参加者(映画好き順)
ファシリテーター
『サマーブルー』の自分の感想にもやもやしている。感想会では自分の感想は表に出さず、聞き手に徹する。
参加者
映画大好き88IO君。今年見たアニメ映画で一番好きなのはポンポさん。映画に生かされていると豪語する男。
映画好き2人目。『ショーシャンクの空に』『シャッターアイランド』『THE GUILTY』などを勧めてくれた。
アニメ好き。好きなアニメは『まちカドまぞく』。
『ハイキュー!!』が好き、上記三人ほど映画好きではない。
感想
参加者は動画のみを見てもらっている。
なるべく公平を期すため、Googleドキュメントの共有機能を使って各々文字起こししてもらい、それをなるべく原文で掲載する。そのうえで省略個所を適宜積雲が補っている。
単発で思ったこと
好きな点・すごいと思った点
- 過去に跳んだ切り替わりが好み、雰囲気とテンポがごっそり変わった感じ
- 赤のアクセント好き
- 女の子のキャラクターデザイン
自主制作でしっかりとしたアニメーションをされていて、すごいと感じた。
好きじゃない点・期待外れだった点
- PV(予告編)でのダイジェストの中身を期待する他、「どうやって現代に帰るか」「どうやって彼女を失うのか」に期待するけど、本編ではそれらが描かれなかった。
- 主人公の持っている世界観である「通話一本で救急車がくる」「当たり前」というのが2021年の日本という狭い地域のものでしかないこと。「未来では」という主語に対してはやや狭い範囲しか指していない。
予告かと思った。予告編的手段で、短い様々なシーンの連続によって物語を凄い圧縮する技術としては賢いのかもしれない。なんか映画の予告編(CM)と本編の関係性のミーム(文脈というかアナロジーの要求というか)に甘えてないか?という思いもある。
TVで観たけど、音にびっくりした() : 携帯とかで観ちゃうと微妙そう
個人的に女の子の絵が好きじゃない。(特に輪郭の形)
理解できない点・作品に対するツッコミ
- けがして死ぬのの意味が解らない。原因が存在しない。血だらけで倒れているのに近くに物なさ過ぎるし、引きずってきたなら血の道ができるはず。主人公君、君が殺ったんだよパターンかも知れない。(は?)
- 1993年代の状況と、スマホの電波に等に関しての説明はSFとしてはちょっといただけない。携帯がつながると思う確信できる理由や、つながる原理についての描写がないので、最後の119が後からつながった描写で何が起こっているか理解できない。ストーリ展開にSF性が深く絡みすぎているが、この作品にSF性は求めてはいけない可能性がある。(は?)
- 携帯電話の概念は既にあるはず。女の子が理解できないということはないのではないだろうか。
- 緊急地震速報→なぜお腹怪我したの…?()
- なんで「サマーブルー」というタイトルなんだろう、単純に夏と海?、それかブルーは悲観さ?
- 最後なんで消えたんだろう?
その他
あふれ出る「サイダーのように言葉が湧き上がる」感。
『君の膵臓を食べたい』っぽい。女の子が唐突に死ぬ感じ。
〇の名は。を想起させた
テーマについて
まずテーマは「現代にあるもの と 30年前の対比」であると思った。また、科学技術のない世界で救えなかった彼女への愛を抱く青年、最後の119が繋がってスマートフォンだけ現代に飛ばされて、どうにもならなかった…
最初は、現代の技術があることへのありがたみを感じるアニメかと思ったけど、技術が無ければ何もできない、普段自分一人で出来ると思っていたことが環境がなければ何もできなくなるという現代人の無力さや切なさも再認識できた映像だったと思う。
Dureyっぽい感想だねそれは。
確かに偽善的に取れば「現代の当たり前の大切さ」なのかもしれない。
似たような例で戦争の学びから反戦への倫理観を得られるけど、恐怖観とかの実感はない。それと同じ部類だと思うんだよね。見てる我々は過去に飛ぶことはありえないから、未来に当たり前がなくなってたら怖いけど、過去だったらどうこうっていうのは響かないよね。『アフリカの子供たちは云々』と同じ。一晩で忘れちゃう。
ここで88IOらを中心に、「現代の当たり前の大切さ」というテーマではもやもやするとの声が増える。しばらくの話し合いののち、『サマーブルー』狂人モノ説という解釈が完成する。狂人モノの定義はこちら。
『サマーブルー』狂人モノ説
ルール
- タイムスリップは主人公の意図ではなく、関知できない第三者によるもの。過去へ行くのも2021年に戻るのもランダム。それを主人公は理解していない。(未来に電話がつながれば、そこで助けを求めて戻れると思い込んでいる)
- 主人公はあまり賢くない。女の子も同様。
- 未来から飛んできた電波で過去の携帯電話が鳴ることはない。(が、主人公らはそう思っている。)
- 電話回線もインターネット回線も1993年には利用できない。
- 圏外にずっとなっているのはタイムスリップでSIMが故障したか、1993年に「モバイルデータ通信がオフになっています」の状態にしたのを忘れていたかのどちらか。
- 1993年なのはこのカットまで。
1993年にはあるはずのない基地局が出たので、ここから2021年に戻っている。(主人公たちは気づいていていない。)
実際、そのあと自宅につながっている。ここで主人公は「電話に出て助けを求めれば未来に帰ることはできる」と解釈する。
主人公は女の子に恋をし、つながる電話で未来に助けを求めるのをやめ、1993年にとどまることを決める。(ただしスマホに対する未練はある)
緊急地震速報が鳴る。これはもちろん2021年の地震である。だが主人公らはまだ1993年だと思っている。地震が起こって女の子が重傷を負う。
1993年だと思っている主人公は繋がらないと思いながらも、ダメもとで119通報する。
1993年にいると思っている主人公は、女の子に諭され、ようやくスマホの万能性を手放し、海辺に捨てる。1993年に生きることを決意する。
スマホが119番につながる。2021年にいるので当然のことである。
スマホの近くに二人の姿はいない。せっかく女の子を助けられたはずだったのに、主人公が2021年なのに1993年に勘違いしているということと、スマホの万能性を手放し、1993年に生きるという決意をしたことよって、女の子は死んでしまった。
(ここからは妄想)
おそらく主人公は何らかの形で2021年であることに気づく。自らの決意で助かるはずだったかもしれない女の子を殺してしまったというやりきれなさに苛まれる。
Rokuによる要約
[狂] 過去だと思いこんでいるが、実は現代に戻っている。
主人公は現代に戻っていることに気づいていない。
現代であっても地震直後であるため混雑しているか、もしくは単純に災害によって不通気味になってしまっていたがによって、繋がらない。
過去にとどまることを決意した主人公は、ついにスマホを手放した = 現代を諦めた。
本当は現代に戻っていて119にもつながるはずだった。
自分は成長できたと思いこんでるが、実は希望を捨ててしまっていた。
主人公が成長したことで、彼女を殺してしまった
という説が出て、大いに盛り上がったが、流石に曲解が過ぎるため、Rokuを中心にしっくりくるテーマ説明が模索される。
結局『サマーブルー』のテーマは何なのか
(ジョーク)考察ポイント:
電波の先は未来である。というのがこの作品の前提として主人公は理解しているし、層なのだとする。すると、スマホの緊急地震速報は現代から送られてきた電波である=2021/8/31の地震に二人は巻き込まれた。(もしくは奇跡的に同時に地震が起こった)
おかけになった電話番号は~のことから基地局にはつながっている=時間座標は現代。
混み合っている説(ただ、もし層ならNTTの音声ガイドは混み合っているとなるが)か何らかの技術的な理由でそうなっていると思われる。
真面目に、もしこの作品の主なメッセージ、パンチラインが「現代文明に依存しきったことへの反省」なのかも知れないが、ほとんどは現代に帰るための話になっており、現代の技術が無いことへの不便さが提示されていない。こういった主題的なものは大なり小なり物語全体に横たわっているか、反復させるのがセオリーなのではないのか。
散々つながらなかった携帯を致命的なときに使おうとすることで、スマホで119をかけるのが当然だと思い込んでいてそれ以外の手段が執れない、当たり前って大切だったんだね。って話になるのだろうか。スマホが使えない世界にするためにタイムスリップをさせ、スマホにライフラインを依存しきった悲しい現代人の末路を描くために、殺すために恋愛をさせたという印象を強く感じた。
散々使い物にならなかったスマホで119番をかけようとする主人公の頭の悪さが作者の意図であるとすれば、他の手段を想像することのできないような強度の依存に対しての警告の意図があったのだろうか。しかし、だとしたら応急手当や止血法などを調べよとして解らないというような描写も、その前の夏休みの生活の中にもない。PCもスマホもつながらないというワンシーンが、当たり前への依存の描写だったのか。少なくとも僕は、現状を説明する単なる場面描写として受け取った。そして、そのシーンを最後に、現代の当たり前の象徴であるスマホは、現代に帰るための手がかりとなるガジェットとしての描写にしか見えない。これではあまりにスマホの立ち位置にブレがある。
『電話をかけたら助けが来るという他力本願への批判』と言うのが、この全体の描写を総括して得られる教訓である。未来へ戻る方法が未来に助けを呼ぶというあまりにも他力本願な手段である。結局、その電波探索も、ただ闇雲に電波をさがしてさまようだけである。自力での課題解決の為に仮説、可能性の高い手段を思案する描写もなく、全くもって神頼み的な電波探査である。最終的には自力の手当も止血もろくにせず、119がつながるのを祈り、救急隊が助けてくれるのを祈って待つという、やはり自助努力を行わず、他力による救済のみを願っている。その結果、1993年に取り残され、彼女も失うという惨事に至った。こう解釈するのが妥当ではないか。
これが一番しっくりきますね。
うん。
まあこのテーマを受け取るにしてもわかりにくすぎるし、あまり親切な作品ではないよね。
まとめ
映画好き4人が集まって、4分45秒の作品からここまで語ることができた。そういう意味ではこの作品のポテンシャルは高いと思うし、決して『泣きました』『感動しました』『内容が濃かった』『いろいろ思いが詰まっていると感じました』で済まない、難解ではあるが共感できるテーマを持った作品であることも証明できたように思う。
この記事が『労い感想』があふれる中で、『サマーブルー』を初めて観るコミュニティー外の人達のガイドになることを願ってやまない。
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