積雲が映像制作したMV『RANGEFINDER』公開中
レビューカメラ積雲

なぜ今、フィルムで撮るのか。それは「自由」だから。

レビュー

フィルムカメラ、それは今や不自由の象徴である。しかし私は、翻ってこれが最も自由な「カメラ」であると思う。これは、「フィルム」という概念のレビュー。レビューといっても製品レビューではなく、「見直す」という意味の。

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カメラとして不自由なフィルム機・自由なスマホ

写真の歴史の中で、今ほど「写真を撮るコスト」が低い時代はなかった。今、僕のポケットにあるスマートフォンを取り出せばものの数秒で目の前の光景は電子データに変換され、それは「今の情景はいつでも見返せる存在」になったことを意味する。

iPhoneにて撮影 なんか近所の用水路に鯉がたくさんいた。そんだけ。

かつて、写真といえば、今より経済的にも心理的にもコストのかかるものだった1990年代後半まで、写真という行為はフィルムを買って詰め、24枚か36枚何かしらを撮って、フィルムを巻いて現像に出して、それがL版の写真となって帰ってくるまで、露出やピントが合ってるかなど、何もかもわからない、そんな行為だった。

大須観音にて鳩飛翔す

鳩。唯一飛翔形態を撮影できた一枚

恐らく撮られる側も、その重大さを承知していた。「ハイチーズ」という掛け声は、きっと今よりずっと真剣に響いたに違いない。フィルム代や現像費用がコストとしてかかるのはさることながら、確認も修正も効かないフィルム機で写真を撮ること自体、撮るほうも撮られるほうも、心理的なハードルは高かったと思う

思う、というのも、僕はそんな時代を生で経験したことはなく、写真といえばスマホで手軽に撮れて、その場で確認でき、加工を施して、シェアするものという感覚を持っている。当時、写真を撮る敷居を上げていたものは、今、ほとんど解消されている。

スマホだとこういうしょうもない写真を量産しがち

つまるところスマートフォンの登場は、真というものの価値のインフレを引き起こした。写真とは、誰でも気軽に撮ることができ、失敗してもすぐに撮り直せる。枚数も制限なく、連射だってできる。他の人の写真を保存することだってできる。そういう存在になった。もはや、写真を撮ることも、撮られることも、特別な経験ではなくなってしまった。

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写真に価値を付加する試み

フィルムが主流だった90年代初頭まで、写真とは、それだけでコストがかかるが、それがゆえにわりと無条件に価値があるものだった。しかし今や、ただ写真を撮る行為など、誰にでもできることであり当たり前になりすぎて、その価値だけでなく意味・モチベーションをも失ってしまったといってもいい。記録写真ならまだしも、写真を撮って、人に見せ、エモーションを共有するという営みを成立させるには、写真に価値を付加せざるを得なくなった。

「記録写真」の例。ただ腹が減るだけでなんのエモーションも共有し得ない。ああ、おなかが減った。

こんなふうに写真の価値が下がりきってはじめて、写真に付加価値をつけようという試みが始まった。ここでいう価値は、「写真を通じてひととエモーションを共有する」ことである。そしてその方向性には大きく二つあった。

一つ目が、被写体をみんなが見たいものや、めったに見られない、珍しいものにしようというアプローチだ。もっとわかりやすく言えば、「映え」を目指す、ということだ。インスタ映えという言葉が叫ばれて久しい。確かに有名人や、タピオカ、観光スポットなどの写真は、間違いなく何の変哲もない普段の写真よりもいいねが多くつく。

タピオカ

タピオカ。露出をミスって黒飛びしている。

しかし、この方向性は第一に労力を要する。移動や購入にかかる費用はいうまでもなく、流行を追って、それに合わせて自分をチューニングしていくことが、何よりも疲れる。そして、日常の中に感じるエモーションを共有したいひとたちにとって、この方向性は向いていない。

そこで生まれたのが、撮れた写真自体にフィルム風の加工を施し、写真はどれも価値あるものだったという時代性を感じさせる方向性である。しかしフィルム風加工が持つ効力を説明するには、まず時代性とは何かを語らなければならない。

写真に時代性を持たせるというアプローチ:フィルム”風”加工

時代性とは、その媒体から時代の文脈を読み取ることで成立する。例えば、祖父の時代のアルバムを開いて、今時珍しい白黒写真を見たとする。そのあとで、たとえ今の風景であっても、白黒になった画像を見れば、どこか古めかしさのようなものを感じるだろう。

つまり、白黒写真やフィルム写真は古めかしく、貴重だった、という既存のコンテクストを流用して、それに現在の写真を流し込もうというのが、フィルム風加工が目指すところなのである。

フィルムではないですが、旧型センサー搭載一眼レフから時代性を感じ取ろうとしたのが以下の記事です。
僕の相棒Nikon D50~この色味に僕は惚れた

フィルム風加工の実例

フィルム風加工によって時代性を感じさせようとする試みの例を3つほど紹介する。

一つ目はいわずもがなインスタグラムである。デフォルトで選べるフィルターのいくつかは、フィルムを意識した色づくりになっている。フィルターをかけるだけという簡易さながらも、間違いなくこの時代性の効果は生まれている。

二つ目はミラーレスカメラにオールドレンズをつけて写真撮影することである。オールドレンズとは、フィルム時代に一眼カメラに使われたレンズのことを指す。それを現在の一眼カメラに乗せることによって、光学上は、当時と全く同じ写真が撮れることになる。さらに、マニュアルフォーカスや手動露出などの縛りプレイを科すことで、撮影体験からフィルムの時代性を得ることができる。これは、わざわざオールドレンズを用いて行う、撮影体験を含めた大掛かりな、時代性体験といえる。


三つ目はライカM10-D富士フィルムX-Pro3といったカメラである。これらは限りなくフィルムカメラに近い撮影体験のできるデジカメという立ち位置の製品である。

ライカM10-Dの背面。液晶パネルがなく、代わりに露出補正ダイヤルがついている。

初めにライカM10-Dであるが、このカメラの一番の特徴は背面液晶を搭載していない点である。つまり、家に帰り、SDカードを読み込むまでは、どんな写真が撮れているのか一切確認できない。一見極めて不便そうに見えるこのカメラだが、この不便さが、フィルム時代に人々が感じていた写真撮影への緊張感を励起するということで、人気を博している。実際にライカ社へのインタビューの中で、このカメラは、我々がデジタルカメラでやりがちな、「一枚とって確認しまた撮っては確認し・・・・」というスマートでない行為を戒めるカメラである、と述べられている。

続いてX-Pro3であるが、一番の特徴は画面を表にして収納することのできない背面ディスプレイである。普段は画面を見せず、ファインダーを覗いてシャッターを切ることだけに集中させる仕組みになっている。ライカM10-D程過激ではないものの、撮影体験の洗練という意味では十分機能しているといえる。

公式サイトより。フィルムシミュレーション「クラシックネガ」の作例。確かにフィルムっぽい。

また、このカメラにはフィルムシミュレーションという機能が搭載されている。これは読んで字の如くフィルムで撮った写真のような加工を画像処理の段階で施すというものである。もともと富士フィルムはフィルムを生産していた会社であるから、その再現度は極めて高い。撮影手法だけでなく出力結果もフィルムに寄せているという点で、このカメラは、現状最もフィルムカメラに寄ったデジタルカメラであるといえるだろう。

時代性は拡散し始めている

話を少し戻って写真のもつ時代性そのものについて論じてみよう。写真の価値を高めるアプローチの一つとして、フィルム風加工を挙げたが、これは今や時代性を失っている、と私は感じる。というか、「フィルム風だから、白黒だから、時代を感じられる」というフェーズが、もう終わりつつあると感じるのだ。

これは単にフィルム風加工に目が慣れてしまったからではない。もはや時代性そのものが拡散し始めてしまったからだ。

時代性を拡散させる要因は、いわば二つのベクトルを持っている。一つは言うまでもなく、フィルム風加工によってもたらされる、現在を過去に投影するベクトルである。そしてもう一つは白黒写真のAI彩色や、機械学習による解像度向上サービスなどで可能になった、過去を現在らしく見せるベクトルである。

機械学習が、過去を現在らしく見せる

機械学習が過去を現在らしく補完する例について、一つ例を紹介する。

これは写真ではないが、高解像度化するGigapixel AIとfps保管を行うDAIN、自動着色を行うDeOldifyの3つを組み合わせて、もとは白黒映像で低解像度だったものを、4K 60fps、フルカラーに復元している。

映像を見る限りでは、すべての補完が完璧とは言えないものの、少なくとも100年前の映像とは思えないほどに質が上がっていることがわかる。

こうした試みは、古き時代の人々の生活をこれまで以上になじみ深く感じ取れるという利点があるが、たとえ白黒映像であっても現代的な映像に近似できるということは、同時に、大昔というのは必ず白黒で、解像度とフレームレートが低いもの、という時代性が崩れる、ということにもつながる。

現代の写真はフィルムらしく、白黒フィルム映像はデジカメのように。このトレンドは、時代性がはっきり認識されているうちはギャップを感じ付加価値として役立つかもしれないが、浸透しすぎれば、逆にそうしたコンテンツのギャップを認識できなくなるだけでなく、フィルムや白黒映像が持っていた時代性そのものが希薄になっていってしまうのではないだろうか。そういった意味で、写真の持つ時代性は現在、双方向から侵略を受けているといえるだろう。

時代性の喪失した先に残るもの

一度失われた時代性は、懐メロを聞きまくって懐かしさを感じなくなるのと同じで、フィルム風加工や機械学習による映像補完といったトレンド、そして時代性を失った時代そのものが時代性になるまで、決して戻らないと私は思う。

そして時代性を売りにする写真は廃れ、デジタル写真はデジタル写真のコストに見合った評価を受け、加工されたこと自体が逆に価値を下げる時代がやってくるだろう。というか、加工自体を規制する流れはすでに始まっている。

であるからして、先に挙げたフィルムの近似のようなカメラは、短期的には成功するものの、流行が過ぎるころにはキワモノ扱いになっているのではないか、と思う。その他フィルム風加工と称したアプリ類やフィルター類も、同じくやがて衰退していくと考えられる。そしてそれらは、データである以上、時間がたてば電子の海に漕ぎ出して二度と帰ってくることはないのだ。

そしてそうなったときフィルム写真としての時代性を保つのは、おそらく加工の必要が一切ない生のフィルム写真そのものだけだと私は思う。

大須観音に臨む 多重露光

多重露光してしまったやつ。こんなのも半永久的に残る。

写真を得るまでにコストがかかるし、加工も複製もたやすくはできない、失敗もする、そういった欠点を差し置いても、フィルム写真とは、「本当の光」を物理的にとどめた、半永久的なメディアである。それがゆえに、朽ちることのない時代性を保ち続けるのである。

カメラとして不自由なスマホ・自由なフィルム機

翻って今、写真を通じてひととエモーションを共有する上でもっとも優れた、気さくに撮れるカメラとは何だろう。確かにスマホは気さくに写真が撮れるカメラだ。失敗写真を作ることもない。しかし、今でさえ、気軽さの代償に付加しなければいけない価値のために、「映え」を競ったり、フィルム風の加工が求められたりしている。しかもそうした付加価値も永遠のものではない。データはやがて消える。あ、なんと不自由なカメラだろう。

大須観音の鳩

50円で買える鳩のえさに群がる鳩たち。

それに引き換え、フィルム写真は、確かに敷居が高いかもしれない。でも、いちどその敷居を跨げば、日常も、特別な時間も、なんだって半永久的に残り続ける。「映え」や加工に一切気を配らずに、純粋に撮りたいと思ったものを撮れる。

大須観音 多重露光2

多重露光してしまったもののなかで一番好きな一枚。

失敗写真だっていいじゃないか。それは多重露光を再現したデジタル写真なんかよりもはるかに素晴らしい。だってそれは本物だから。

あらゆる束縛を排して純粋に写真を撮ろうとしたとき、フィルム機ほど自由なカメラはないと思う。

最後に

大須観音にて鳩群れる

鳩の群れ。

フィルムは産業的に危機で、特に白黒フィルムとリバーサルフィルムは絶滅危惧種です。逆に言えば撮れなくなる前に撮ったもん勝ちみたいなもんです。写ルンですからでも全然OK。さあ、あなたもフィルム写真を始めてみませんか。

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