読者の皆さん、前回のフィルムの記事を覚えていらっしゃるだろうか。
この記事の最後に、「白黒フィルムやリバーサルフィルムは絶滅危惧種」と書いた。
本記事ではまさにその、絶滅危惧種である白黒フィルムの話をしていこうと思う。
白黒フィルムとは:歴史的位置づけ
文字通り、白黒にしか撮れないフィルムのことを指す。
ただ、それだけなのだが、白黒フィルムで撮ることの意義を語るには、もう少し「写真」そのものの歴史について踏み込まないといけない。
湿板写真・乾板写真
写真というものを最初に実現したのが白黒写真だった。とは言っても、その撮影手法は今と比べて格段に手間のかかるものであった。
写真黎明期の様々な手法改良を経て、まず一般的になった写真撮影方法は「湿板写真」である。
御覧の通り、ガラス板を薬剤で濡らし、乾かないうちに露光して、乾かないうちに薬剤で現像する、といった手順で撮影するものである。
この手法には露光時間も数秒かかり、当然写真一枚につきガラス板一枚の処理を必要とする。現像までの時間が限られているなど、多くの問題点があった。
このように手間がかかる湿板写真に代わって、乾板写真が現れる。詳細は省くがこちらは大雑把に言えばいつでも撮影でき現像もできる湿板写真といった具合で、フィルムが登場するまでの間、主流であった。しかしガラス板を用いることに起因する問題は未解決のままだった。
ロールフィルムの登場とライカI
フィルムが発明され、乾板写真が一掃された後も、写真撮影に使うフィルムは現在のようなロールフィルムではなく、乾板のように一枚一枚入れ替えて使う、シートフィルムというものが一般的だった。
そもそもロールフィルムそのものは、写真用に発明されたものではなく、映画用に発明されたものだった。動画を撮りたいときに、一コマ一コマシートフィルムを入れ替えているのでは間に合わないので、長いロールフィルムを巻き取りながら露光する手法が編み出されたのだ。
のちに最初の商業的なフィルムカメラ「ライカI」を生み出すライツ社も、こういった映画用のカメラを開発する会社であった。
同社の技術者のオスカー=バルナックが、ロールフィルムを用いて携帯可能かつフィルムを取り出すことなく複数枚撮影可能なカメラを発明し、1925年に「ライカI」として発表した。
ライカIの登場はカメラ史において革命的な出来事であった。写真一枚当たりの単価が著しく下がり、撮影や現像にかかる手間もかなり省略された。
このカメラは瞬く間に世界中に広がり、その多くの模造品とともに、写真というものを職業から誰でも撮れるものに変えていった。一般にも写真が需要の対象になり、カメラ産業だけでなく、フィルム、現像までもが一気に大きな市場へと変化し、市場原理の元急激なコストダウンが進み、さらに普及していく・・・という好循環が始まった。
人々の写真に対するイメージも、「写真屋に行き、撮ってもらい、時間をかけて現像してやっと一枚得られるもの」から「個人で何枚でも撮り、写真屋に寄って現像してもらえばすぐ手元で見られるもの」に変わった。
こうして、写真は「大衆文化」へと発展した。そしてこの過程を支えたのが、安価な白黒フィルムだったのである。
白黒フィルムの良さはノスタルジーではない
しばしば、「白黒写真はノスタルジックだからいい」といった意見を見かけるが、僕自身はあまりそう思わない。
ノスタルジーはしばしば郷愁と訳され、昔や故郷を懐かしく思う気持ち、などと説明される。
確かに、年配の世代にとっては、自分が若かりし頃の白黒写真は懐かしさを喚起するし、たとえ僕のような若い世代でも、昔の白黒写真を見て、こんな時代があったんだなあ、とやや疑似的に懐かしさを感じることもできなくはない。
しかしノスタルジーの原義「故郷やかつてあった時代に戻ることのできないやるせない感情」に遡れば、そんな生半可な感情ではないことがわかる。
白黒写真を実際に経験した世代ならともかく、僕たちのような若い世代に関して言えば、生まれてこの方写真といえばデジカメで撮れるカラー写真である。白黒写真なんて別にかつてあった時代を感じさせるものでもないし、ぶっちゃけていえば色のついてない写真以外の何物でもない。
そもそもフィルム写真だから、白黒だから、そこに時代性を感じて楽しい、という構図自体が崩れつつあるのは前回論じたとおりである。
フィルムにノスタルジーを感じる世代がいるのは確かであるが、僕たちがそういう「白黒写真の楽しみ方」まで踏襲しなくてもいいのではないか、と思うのである。
白黒フィルムで撮る意義
白黒フィルムこそ、一番目新しい表現手法だ
写真がデジタルネイティブな僕たちにとって、フィルムはむしろ目新しいものだ。
特にSNSが一般化して、写真というものは巷であふれかえり、溢れかえっているのが当然のような存在になっている。というのも、前回論じた通り、デジカメはフィルムのような枚数制限もないし、現像の手間もかからないからである。
フィルムは、デジカメとは真逆で、厳格な枚数制限がある。いろいろなお作法がある。それらすべてが、僕たちにとっては新鮮に感じられる。撮影体験を含めて、「フィルム写真」という様式を、まるでライカIが登場した当時のように、一から楽しむことができる。そういうスタンスでやってみたほうが、もっと楽しいのではないか。
フィルムに新鮮さを求めるなら、カラーフィルムでは物足りない。白黒フィルムであれば、そもそも写真には色がついていて当然という既成概念すら飛び越えた新しさに出会える。それは未知の表現手法。そこにワクワクして、飛び込んでみるのも悪くない。
ノスタルジーだけに頼れない白黒フィルム
冒頭でも述べた通り、白黒フィルムは絶滅危惧種である。国内では主に富士フィルムとイルフォードの2社ぐらいしか流通している製品がない。
しかも富士フィルムは2018年に一度白黒フィルム・印画紙から撤退している。SNSや愛好家からの強い要望により2019年に白黒フィルムを復活させたものの、需要が続かなければ再び撤退する可能性は十分ある。
白黒フィルムがなくなればどうなるだろうか。おそらく、白黒フィルム写真は今、湿板写真をやっているのと同じような扱いになるだろう。つまり、一部のコアで、金銭に余裕があるマニアだけが楽しめる、そういうコンテンツになってしまうことだろう。そうなってしまえばもはやそれは文化と呼ぶことはできないし、撮りうる写真の表現の選択肢からは消えてしまう。
幸いにも白黒フィルムはライカI以来の産業的なバックアップもあって、継続して安価に続けていけるだけの土台がまだある。しかしノスタルジーを感じる愛好家だけに頼っていては、先は望めない。
白黒フィルムを残していく上では、既存の愛好家需要に加えて、若年層が「新しい表現手法」としての白黒フィルムという文化を作っていく必要があると思う。やがて本来のノスタルジーを感じる世代がいなくなれば、白黒フィルムという様式を楽しみ、支えていく主役になるのは僕たちの世代なのだ。
作例
今回使ったフィルムは富士フィルム「ACROS100」である。これは2018年に生産が打ち切られたフィルムである。なお、現在は2019年に発売され、粒状感などを向上させた後継フィルム「ACROS100Ⅱ」が代わって流通している。
カメラは前回と同様のOlympus OM-1でレンズはZuiko-auto 50mmf1.8を使用している。
フィルム写真は失敗がつきもの、ということで、今回は36枚巻きで撮った写真をすべて無加工で掲載する。実際のところ、どれぐらい成功して、どれぐらい、あるいはどんな風に失敗するのか、ご覧いただきたい。
大須観音
ストリートスナップ
桜
再びストリートスナップ
鉄道
まとめ
作例で大体の撮影イメージを掴めたのではないか、と思う。あんなに語っておいてあれだが、僕は白黒フィルムで撮ったのは初めてだった。撮る前も撮っているときも、これ結局白黒なんだよなあ、とか思ったりもした。だけど現像に出して帰ってきた写真を見て初めて、ああ、いいなあ、と感じた。この感情はそれ以上はいかにも言葉にし難いものだった。もしその感情の内実が知りたいなら、あなたも白黒フィルムで撮ってみるしかない。
コメント