ノベルゲームの醍醐味ってなんだろう。
僕は多くのゲームをプレイしてきたことがないので一般観は分からない。
けれど「ノベルゲームといえば?」と聞かれれば、
- 脚本
- 原画
- 背景
- 音楽
辺りが思い浮かぶ。
そして今現在、積雲が企画したノベルゲーム制作を手伝っている。
担当は積雲が原画、クイサレが脚本、Rokuが音楽の選考をし、僕がシステムだ。
ただ、制作4人ということもあり、背景は写真加工、音楽はフリー素材。
- 脚本
- 原画
- 背景
- 音楽
4つ中2つの創作性が欠けている。もちろん登場人物は喋らないし、アニメーションもない。
この前提で「何を持ってノベルゲームとして差別化を行うか」について考えてきた。
3ヶ月程経てようやく朧気だった難しさが形を帯びてきたのでここに留めておくことにする。
一番の問題は世界観だった。そもそもクイサレは物書きであるが書くのは小説であり、積雲は絵描きであるが実績というモチベーションが不安定であった。
クイサレ
クイサレの書く物語は面白い。彼が過去に書いた文章を読んでそう思った。ただ、彼の面白さは彼自身の面白さだった。世界観の土台の上で繰り広げられる会話劇、それが彼の強みだと確信した。
ただ、それは世界を創り出せることと同義ではない。キャラを生かすことに長けてはいても、キャラを生み出すことに長けているとは限らない。
「音楽性の違い」から没になってしまったこのシナリオを読むと分かりやすいと思う。
彼の頭の中で生きているキャラを描写しているが、客観視するとキャラの魅力が出てこない。魅力に感じるのは彼の文章だった。
世界観の土台を描写しない本作品で、読者は現実世界を基盤にして解釈するだろう。そして発言の幼さが目につく。僕らは学生だが、社会人が読んだらどう感じるだろうか。
異世界物が流行ったことが理解できた。現実を基盤にした物語は整合性が取れていないと違和感が目につくのだ。
積雲
先程の述べたが、彼は企画立案者であり原画を担当している。
彼が全体のマネジメントを行っているが、問題が見えてきた。
「立案」≠「原作/脚本」なのだ。
彼自身が全体像を把握できていない。
世界観の所有者はクイサレであり、その世界観を積雲が飲み込めていない節がある。
そのため、「こんなシーンが必要だから描く」のではなく「どんな絵が欲しい」と聞く。コレ自体は問題ないように思えたが、実はそうでもなかった。
クイサレが「驚き顔が欲しい」と言うと積雲は「海外コメディのような驚き顔」を描いた。世界観が合っていない。
現在、彼は「紗栄子」という登場人物の立ち絵に困っているように思えた。多忙であることも承知であるが、遂に先週分は間に合わなかった。
おそらく彼の思い描く「紗栄子」が形になっていないのだろうと考察する。これは現在上がっているシナリオ上で彼女の背景が明らかになっていないからだ。
作業進行としては世界観の描写に必要なパーツを小出しにせずに伝えきるのが好ましい。おそらく。
彼はどれだけ描く必要があると考えているだろうか。以前、彼は「コミケで1,000円とかで出したい」と言っていた。
それならば音楽も声もない以上、立ち絵は各登場人物に対して表情差分抜きで2種類。1枚絵はところどころ挟んでいきたいだろう。
その上で遅れている。もしかしたら遅れてはいないのかもしれない。これに関してはタイムテーブルを更新してもらう他ない。
マネジメントを行う彼の作業進捗は全体のモチベーションに少なからず響く。絵を出しきらなければ完成しない。信頼を盾にしても責は重大である。
Roku
彼は楽曲の選考と挿入を担当している。
挿入に関しては僕が先にスクリプト埋込みを行わなければならないのが辛いところ。
待たせてしまう部分もあるだろうし、それが僕へのプレッシャーにもなりかねない。遅れると作業のテンポが崩れ、彼のモチベーション低下を引き起こす畏れがあるからだ。
最近の部分に関してはシナリオで楽曲の指示が行われなくなった。正直大変だと思う。僕としても主のシステム部分の指示はないので何とも言えない部分もある。
彼は純粋な興味で参加しているというより、高校時代の縁で参加しているという印象がある。不満は吐露してもらいたいところだ。
88IO
「妥協」も必要なのかと考え始めた。
しかしそれでは「ノベルベームを制作する意義」を失う。意義を妥協した先は虚無だろう。
だからこそ「差別化を行うか」について考えていた。
【原画】か?
一枚絵がひとつも上がっていない以上、お世辞にも現段階で投資できるものではない。
【脚本】か?
これだ!そう思った。
VTuberを扱う上で職業と魂の2方向の考えを提示し、問題提起を行う。
これにだったら興味惹かれるし、制作に助力したいと感じる。正当化する理由ができるのだ。
クイサレが新たに書き上げたプロットは「愉」「章介」の2視点で展開し、両者の主張を平等に受けられるような構成であった。
ただし、僕の妄想とは少なからず乖離があった。
神様の我が強いのだ。「彼の文章」が残っている。登場人物よりもクイサレが目立つ。
また、シナリオ構成も主観と客観が行き来し、前の文章を参照する「読み返しが必要な文」も所々にある。とても小説的だ。
ノベルゲームはクリックで前文が消える。読み返しの多用は疲れてしまう。
今のところ小説的な部分は修正し筆者のエゴは減らすようお願いしている。
ゲーム性を出すための工夫としてシナリオ分岐案が出ていたが、クイサレはこれを「章介」の行動を分岐させるという解釈をした。
これでは視点に不平等さが生まれ、当初のメッセージ性が損なわれてしまう。企業的であるなら「愉」に寄り添うべきだろう。彼の理解は他者譲りで、彼自身が妥協しているのではないかと感じる。
この時思い返してしまったのだ。「差別化」について。
これでは差別化ができていないのではないか。小説のままの方が彼の文章が活きるのではないか。他者の要望に準じ深い事を考えて書く文章に意義を見出だせなくなるのではないか。
彼が殻を破り新たなスタンスを開拓するのであれば良いが、この文体/個性にプライドがあるなら傷つけることになるのではないか。
絵を足し、音楽を加え、ゲームにまとめる。それで味が良くなるのか。
現状では塩むすびにふりかけを混ぜ込もうと塩を減らしただけの状態だ。しかもふりかけに味はない。
彩りが良くなったように見えても、味は塩むすびの方が良ければ意味がない。
結局は伝えたいものに対する「想いの強さ」「かけている熱量」が重視される。
小説的で在りたいならば小説で良い。絵を妥協するならば小説で良い、音楽を妥協するならば小説で良い。勿論システムを妥協するならば小説で良いのだ。
総合芸術として昇華させるべきものが足枷になるならば付き合う必要はない。
積雲がシステム面でより良くしようと要望を出してくれればそれが自分のモチベーションとなる。それが暗に彼が妥協していないことを指すからだ。
シナリオの埋込みは誰にだってできる。妥協が見えたら後は任せよう。僕はそのように妥協することにした。
コメント