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『世界観』妄想しかできない

日常

物書きのクイサレがバーチャルライバー運営を舞台にしたシナリオを書いているんだけど、こういうのを読んで意見を聞く機会が多いと勝手な妄想が捗る。雑談で「こんな設定があったら面白そう」とか若干の深夜テンションで語ったり。まあ上記のシナリオとは関係ないのだけれど。

「地球平面説は間違いではなかった。過去の人間は2次元の存在で確かに地球は平面であった。過去、大航海時代に地球1周を成し遂げる過程で『空間』、地球は球体であるという3次元の概念が生まれ、我々はそのとき3次元の存在に昇華したのだ」

「子供には見えるもの。我々が見なくなったもの。『幽霊』は存在した。存在しないという教え/通念がそれを見えなくしているだけだった。」

的な。

これらの妄想を通して感じたのは『世界観』と『世界』の決定的な違い。ぶっちゃけ世界観は誰でも作れるんだよ。記憶は曖昧であっても『夢』はひとつの世界観であるわけだし。でも、現実にスパイスを加える足し算思考だけでは『世界』を作ってないことに気づいた。「こういう設定がある」までは出来ても「その中で生きる人々」は描けない。そもそも思いつかない。「『世界』を描けるのが物書きなんだ」と思った。

そんな感じで作家至上主義になったりもしたが、ここでの弊害はあくまで物書きは「『世界』を描ける人」であるということ。『世界観』を蔑ろにしたり、登場人物に合わせて『世界観』を捻じ曲げたりすることがある。

これは「小説家になろう」の投稿作品を見ると分かりやすくて、特に『世界観』、物語の基盤となる概念を流用するものが多い。「自由時間がクソ長い学園もの」とか「中世じみた異世界」とか「レベルやスキルのあるゲーム世界」とか「シナリオのある乙女ゲーの世界」とか。これらは一見独創的にも思えるが、既にテンプレートとなっているために読む側が『世界観』を創造できる。物書きは有り体に言えば『世界観』描写をサボれるのだ。物書きの一部は『世界』を描くことが楽しいわけで登場人物の物語がどう展開していくかを注視している。だから最終的に「神様的なもの」「努力は報われる理想論」といった『世界観』の上に立つ存在になって完結したりする。

『世界観』妄想しかできない僕のような人は、物語を描こうとしてもプロローグで止まる。概念は描ける、設定も描ける、人物は想像できない。それでも『世界観』への拘りは強い。せめて出来ることは物書きに描いてもらった『世界』で生きる人物を描き足すことだけ。バクマンみたいに「俺は原作、お前が作画」と分業するのも難しい。物書きは『世界観』を曲げてでも『世界』を描きつづる可能性があるからだ。相互理解または取りまとめ役が必要なのかもしれん。まずは一つの妄想をこのブログとかで形にしてみようかと思う。

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