成人式に行ってきました。
中学時代はスマホを持っていなかったため連絡手段に乏しく、基本的に合流できたのは中学の旧友数人。
「誰か知人に会えたらいいな」と安易な考えをしていたが甘かった。3中学合同ではロクに知っている人に会えない。変化しているのは当然であれ「別の中学の人ではないか」といったバイアスが邪魔。見かけていたとしてもマスクの着用や髪型や体格が変化が足枷となり判別がつきにくい。
話しかけられて少し会話した相手の名前が最期まで出てこなかったこともしばしば。そもそも一緒に行動していた内の一人の名前は思い出せていなかったりする。「氏名」というラベルの重要性を改めて思い知らされた。別に「覚えようとしておけば」とか「もっと社交的であれば」とか後悔する話ではないけれど。
「誰か」にリンクしているのが思い出であり名前でなかったために「誰か」を見つけることができなかった。ビデオ屋で気になっていた映画を探しているんだけどタイトルが思い出せないあの感覚。
同行する友人が誰かと会い、それが自分の知人であったというパターンはあれど、初見で外見から特定して話しかけられる程の識別能力は惜しくも備わっていなかった。
コミュニケーション能力に乏しいのも如実で、仮に「話しかけた」後に何をするかのビジョンが沸かない。話しかけられると答えられるし此方から話題を振ることもできる。その時間は有意義だとも感じるものの「話しかける」といった行動に移せない。写真を撮るのは好きだが、撮られることを嫌い、撮った物に対する執着がない質も相まって『会って「久しぶり」と言って一緒に写真を撮る』といった一連のテンプレに踏み切れない。
正直、
- 相手を識別できない/名前を思い出せない
- 「話しかける」度胸がなく理由を作っている
のどちらなのか自分には分からなかったりする。
結局いつものメンバーで集まり「誰かいないか」と周りを見渡しながらその場に居座る時間に心地悪ささえ覚える。主催関係者は移動するように言って回り、自分の中では「見ても分からないじゃないか」「分かっても声を掛けれないじゃないか」「声を掛けても何をするんだ」といった偏った考えがぐるぐると回っている。混雑時の人酔いに錯覚したりもする。
自分に明確な趣味ができたのが高校1年冬、それを謳歌したのが高校2/3年のとき、映画鑑賞にハマったのも大学に入ってから、とどれも中学時代より後。現在の自分と馬が合う人を見つけるには時間と場が足りない。取り敢えず連絡先を交換して「機会を作る」きっかけ作りに努めるのが模範解答だったと反省。やっぱり自分はリサーチしないと駄目になる。「『この人』と連絡を取れるようにする」と目的を明確化しなければならない。挽回の機会があるとしたら同窓会だろうか。未定ではあるものの心には留めておこう。
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