皆さんは「コピーライカ」と呼ばれるカメラをご存じだろうか。今回は日本がまだ戦後から復興しきれていない頃に作られたカメラ、Nicca3F/Industar-22を紹介していこうと思う。
コピーライカとNicca3F
時を遡って1930年代、当時のカメラ業界は殆どがライツ社のライカやツアイス・イコン社のコンタックスなど、ドイツの会社が牛耳っていた。
これらのカメラは報道用や軍の偵察任務などに使用されており、そのため各国はカメラをドイツからの輸入に頼っていた。
しかし1939年、ドイツのポーランド侵攻に伴って第二次世界大戦の火蓋が落とされると状況は一変した。
ドイツと敵対したアメリカやソ連などの国々は、偵察任務に欠かせないカメラが調達できなくなった。また報道機関用のカメラも不足することとなった。
そこで各国はドイツのカメラを精巧にコピーし、大量生産することで満たされないカメラ需要を補おうとした。
ドイツと同盟関係にあった日本も、戦況の悪化に伴ってドイツからのカメラ調達が不可能になると、同様にコピーカメラを製造した。
やがてドイツ・日本の敗戦という形で戦争が終わると、ドイツがそれまでに製造していたカメラのライセンスが切れ、戦中よりも増してコピーカメラが製造されるようになった。
このNicca3Fは、そんなコピー品のうちの一つだ。元となったカメラはライカIIF型。製造はニッカカメラ。製造年は1955年。
この前年の1954年に、オリジナルのカメラを作っていたライツ社がライカM3というレンジファインダー機の最高傑作を発表しており、その完成度の高さから日本のカメラメーカーの殆どがコピー路線をあきらめ、一眼レフカメラに移行する契機となった。
つまりこのカメラはコピーライカのうちでも最後のほうに作られた、正に大戦の遺産が生み出した最後のカメラといえるのだ。
使い方
レンジファインダー、オートフォーカスはおろか露出計すらついていない。シャッタースピードも現代のカメラは1/4000秒まで出るところがわずか1/500秒までしか出ない。
このカメラを使うには別途露出計を使用するか、体感露出に頼るしかない。どちらにせよ、絞り、シャッタースピード、フォーカス、撮影に必要なすべての要素を手動で行うほかにない。
装着しているレンズはライツ社のElmarL50㎜f3.5をコピーしたソ連のIndustar-22というレンズだ。コピーライカにコピーレンズ。日本のカメラにソ連のレンズ、実にそそるものがある。
撮影する際にも作法がある。まず沈胴式のレンズを引っ張って回して固定する。ノブを回してフィルムを送ったら、まず距離調整用のファインダーを覗いてレンズのヘリコイドを回しながら被写体に焦点を合わせる。
続いてフレーミング用のファインダーを覗き、フレーミングしてようやくシャッターが切れる。
いざやってみるとひと手間もふた手間もかかるカメラなのだが、それが撮影体験を楽しむことにつながる。
作例
さて作例を見てみよう。以下の写真は全ておととしの夏に撮影したものだ。今にでも持ち出して作例を撮りたいけれど、憚られるのが時勢というものだ。
使用したフィルムはすべて富士フィルム 業務用100だ。
これを持っていったら、祭りの入り口で警備しているおじさんに、「君、いい趣味してるね」と声をかけられた。ほかのカメラではなかなかそんな経験はない。
コピーレンズと侮るなかれ。驚くべきことに、作例を見る限りでは70年前のカメラとは思えないシャープな写りだ。
シャッター音もデジカメのそれと違い、威圧感がない。ストンと腑に落ちる音がし、自然とスナップが捗る。
ちなみにこれらは殆ど体感露出で撮っているが、意外にも露出ミスは少ない。露出を気にしなくてもいい分、面倒な撮影の作法があっても撮影のペースは軽快だ。
まとめ
歴史のあるカメラが好きだ。70年の歴史の果てに若干20歳の自分の手の上にあるカメラと想像するだけでも、感傷のこみ上げてくるものがある。
フィルムカメラ、特に完全機械式のそれは、丁寧に扱い、たとえ調子が狂ってもOHすれば復活する、半永久的な道具だ。唯一の心配はフィルム自体がなくなってしまうことだが、それさえなければ、これからもずっと、僕の愛機として活躍してくれることだろう。
コメント