『ビューティフルドリーマー』、観てきました。
見ようと思ったきっかけとしては押井守原案というところもありますが、(筆者は’95攻殻機動隊の大ファン)その制作体制が邦画にしては珍しいものだったからです。
邦画といえばスポンサー本位、キャスティングも事務所の圧が強かったり、あとは大衆向けのチューニングと言いながら原作レイプしてたり(偏見)と、真に映画というものを作ろうとしないその姿勢が見受けられてあまり好みではなく、ノーラン作品みたいに監督がとことん映画を突き詰めて作りましたみたいな映画が大変ツボなのですが、本作はなんと邦画なのに後者のやり方で作るという、なかなかに実験的な試みをしてたので、そそられたわけですね。
詳細は以下。
本記事では筆者が一切の考察を読んでいない状態での感想、及び考察を書いていこうと思います。
現実なのか夢なのか。映画を作っているのか映画なのか。ではなく
話の筋としては映画研究会に所属する主人公が夢で見たというデジャブで部室にある古い映画(『夢みる人』)の台本(及び設定資料?)とフィルムを見つけ、OBから「それはいわくつきの台本で、完成させまいといろんなことが起こる」などと説明されながらも、「自分たちでも作ってみないか」と部員を誘って映画を作っていく・・・といったものです。
まあ映画で映画製作をやるということは、まあ御察しの通りで映画製作だと思ったら映画だった・・・みたいなメタ構造が想定されるわけですが、意外にも劇中の描写は映画製作とできた映画のカットを明示的に分け、両者の混在を意図的に避けています。
映画製作(ビューティフルドリーマー)のカットはフルサイズで、作っている映画(夢みる人)のカットは縦横の黒帯が入るので、まず間違いなく両者を区別しています。典型例として、多用される夢みる人→(ハイカットの声)→ビューティフルドリーマーという映画と映画製作をシームレスにつなぐ演出は作中を通じて破られません。
だからこの作品を単なる『夢みる人』を作ろうとする『ビューティフルドリーマー』が『夢みる人』みたいな雑なメタで解釈しようとすると詰みます。
メタ読みする要素としては劇中で台本の練習をするシーンで映画の登場人物のセリフと『夢みる人』の登場人物のセリフを混同するシーンがあったり、『夢みる人』のストーリーと同じであろう現象が現実のほうでも起きたりと、両者のリンクを示唆するシーンはたくさん出てきます。しかしこれらは全て「思わせ」だと考えます。なぜなら最後のシーンが全てを持っていくからです。
完成させまいといろいろなことが起こる。文字通り色々なことが。
いわくつきの台本で、完成させまいといろいろなことが起こると言われれば、観客としては完成するのかしないのか、あるいはどういう妨害が入るのか気になりながら見ることになります。
確かに途中で浪費と自損事故から祟りだーとか言うシーンがありますが、さっと流れたあたり重要ではなさそう。
さらにさっき述べたようにキャラが失踪して制作中止に。ああ台本の呪いとやらで消えたのね、と雑に解釈したら普通に身内の不幸でしたオチ。さていつ完成するのかなあ?と期待が膨らみます。
映画の核心はエンディングにあります。キャラの復帰で一旦やめたはずの『夢みる人』撮影を再開し、最後に残っていたカットを撮影します。そのあとそれまで通り、『夢みる人』の最後のカットが入ったと思いきや、そこでエンドロールが流れ出します。エンドロールが終わって『夢みる人』が終わりと思いきや、『夢みる人』の予告編が入り、こうご期待という文字とともに『ビューティフルドリーマー』も終了。
は?
これは映画ではない。(と思う。)
普通、作品の中のキャラクターの自由意思は制作者によってお約束事のように保証されています。キャラクターが仇討ちをしたければ仇討ちが終わるまで描くのが映画です。
この映画は何をしたかというとですね、「完成しないといういわくつきの映画を作ってみよう」という設定でキャラクターが映画を作る作品を作っておきながら、「完成しない原因が」「映画を作る」映画を作る監督にあるんですね。キャラクターたちは自由意思で完成に向けて頑張りだしたんですよ。それを無慈悲にカットしたあなたとは違ってね。なにが『無事クランクアップできるのか?』(公式サイトキャッチコピー抜粋)だ。おまえがすべてをだめにした。
反則です。アウト。もう許されない。自分はこれを「映画」における演出や構造の範囲とは言わせない。これは映画ではない。映画という媒体を用いたドッキリか何かに類すると思う。
でもまあ、『ビューティフルドリーマー』自体が未完作品であるとみなし、作中の『夢みる人』も押井守が描いた『夢みる人』も「完成できない」というジンクスがあることを考えると、未完であることで完成という、ある意味許しがたい結論もあるのかもしれない。この解釈なら映画の制作陣は映画の登場人物そのものということになる。
しかし、映画監督というのは映画を完成させることに、responsibilityがあると思う。作中でもなんどもそれは繰り返されている。この映画の主題は、こんなゆがんだ構造でありながらも、はっきりとこれだということができると思う。
それを言ってもいいのだが、代わりに、最後に監督にひとこと。
「責任、取ってよね?」
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