ライカ欲しい病という病がある。
これはもちろん医学的な病気ではなく、インターネット上のライカ製、特にM型ライカに関してのレビューや関連情報を見聞きして、実機が欲しくなって仕方なくなる、というものである。
要するに「ライカに興味を持つ」→「ライカの情報を見る」→「ライカが欲しくなる」→「さらに情報を調べる」→(以下無限ループ)に陥ってしまった状態のことを、ライカ欲しい病というのである。
多くの”患者”がこの病をライカを実際に購入することによって解決することができるが、むしろしばしば悪化してしまうという厄介な病である。
これは筆者の個人的な定義ではなく、わりとカメラクラスタの共通認識として存在しているものである。
筆者の例
筆者もこの病に感染した。一度目は2018年のことで、その時の対象はライカの中でもバルナックライカと呼ばれる種類のカメラであった。
具体的な症状はというと、まずそのカメラの歴史についての情報を掘り、その次にキタムラやカメラのナニワのオンラインショップを延々と閲覧し続けるというものだった。
その症状は2か月ほど続き、最終的にコピーライカのNicca 3-Fを購入することによって終息した。
二度目は2020年のことで、なおも進行中である。今回の対象はライカ欲しい病の本命といってもいい、M型ライカである。
事の発端はα7iiiの故障によるカメラ買い替えの契機は生じたことであった。Eマウントの大口径レンズを振り回すのが億劫になり、撮影もストリートスナップがメインになっていた当時の僕は、軽量かつ威圧感のないカメラを代替として求めていた。
そうして購入案に浮上したのがデジタルのM型であったが、余りにも高価であることが仇となり最終的には富士フィルムのX-Pro3を購入する運びとなった。
しかしながらM型ライカに対するあこがれも捨てきれず、またフィルムシミュレーションで遊ぶよりもフィルムで撮ったほうが楽しいということに気づき、今度はフィルムのM型ライカを求めるようになった。
ここにおいて、筆者は実質の二正面作戦を強いられることになった。デジタルのM型とフィルムのM型である。症状に関しては第一回とほぼ同じである。
そしてライカM3を購入する運びとなったのである。
これによってフィルムのM型に対する症状は緩和されたものの、デジタルのM型に対する興味は以前にも増し、さらにオールドレンズに関しても欲しい病が発病した。
こうして今や四六時中ライカのことを考えてしまい脳のパフォーマンスや睡眠にすら影響を及ぼし始めているのである。
そもそもこんな記事を書いているのも、自分の所有欲の暴走と金銭感覚の崩壊に関して客観視するためであることは付け加えておきたい。
なぜライカ欲しい病になるのか
ブランディング説
しばしばライカ欲しい病に関しては概して以下のような説明がされることが多い。
「他人が分け隔てなく絶賛しているものというのは興味を惹くものがあり、その中でも性能面や実用上の良い評価というよりは、それが持つ質感やそれを所有することへの愉悦が強調されている場合に、物欲が激しく励起される。」
というものである。別の業界のわかりやすい例を出すと、カシオの安くて高性能な防水時計を普通に欲しがる人はいたとしても強烈に欲しがる人はあまりいないが(カシオさんすいません)、Rolexのめちゃめちゃ高いただの機械式時計に熱狂する人は山ほどいるということは、なんとなくイメージがつく。
ライカに関しても同じで、カメラ界ではキヤノンの高性能な一眼レフを実務で欲しがる人はいても、それは熱狂といえるものではないが、ライカの場合は凡庸な性能のカメラに対して熱狂的なファンがこぞって札束を叩きつけているという印象だ。
ここではライカやロレックスなどに対する熱狂とは、いわゆるブランディングによって励起されるという説明がなされる。高級ブランドメーカーは所有欲を駆り立てるような宣伝や製品づくりをしているので、熱烈なファンは見事にそのブランディングの計略にはまっているというわけである。
そしてインターネット上のレビューや関連情報は、このブランディングを促進させる働きをもち、より深い熱狂へと”患者”を誘う、というのが、一般に説明されるところのライカ欲しい病のメカニズムである。
ブランディング説では不完全?
筆者は長らくこの説明に満足してきた。しかし最近、ブランディングの計略だけでは説明しきれない側面があるのではないかと思うことも出始めてきた。
というのも、ブランディングだけが要因であれば、そもそも中古カメラやその個体のシリアルナンバーの差異、細かな仕様の差などには目がいかないはずである。これらは新品のカメラのブランディングイメージに利用されることはあっても、それ自体にはなんら高級感もなにもない。
ライカのカメラは骨董品だからそこに惹かれたのでは、と言われるかもしれないが、それも違う。筆者が購入したM3は中古のライカの中ではほぼ最安で、しかも表面には目立つ傷も多数あり、骨董品価値はそれほどない。
それに筆者は記念版ライカや限定モデルには、そこまで興味がわかなかったのである。これらはブランディングの塊であるから、筆者がブランディングだけで熱狂していたなら、喉から手が出るほど欲しくなったはずである。しかし実際のところ、経済的な理由はさておき、ただたけーな、と思っていただけで買おうとは微塵も思わなかったのである。
このようなことから、どうやら筆者のライカ欲しい病にはブランディングの枠にはまらない第二のファクターが存在しているようなのである。
ディギリティー説
ここでライカ欲しい病に対する新たな視点として”Digility”(ディギリティー)というものを定義してみたい。こんな英単語は存在しないし、完全に筆者の造語である。
しばしば音楽クラスタの間では「ディグる」という単語が用いられることがある。これは英語のDig(掘る)という動詞に由来していて、特定のアーティストについて片っ端からアルバムを聴いたりある音楽ジャンルの曲をたくさん聞いて楽しみながら深く深く好きになっていくというプロセスを指す。
ディギリティーとは、あるコンテンツをどれだけ「ディグる」ことができるかを指す指標として定義される。例えば、ディギリティーが低いコンテンツはすぐにディグり終わって飽きてしまうが、ディギリティーが高ければ高いほど、そのコンテンツに没頭していつまでもディグることができ、そのうち深みにはまって抜け出せなくなるというわけだ。
ライカのディギリティーはどうだろうか。
深い。深すぎる。そういっても過言ではない。
ライカにはディグることができる要素がいくつも存在する。
カメラ史における立ち位置。世界初の35㎜判カメラを開発し、戦後はM型で日本カメラメーカーの運命さえも捻じ曲げ、しかもその伝説をいまだに作り続けている、という奇跡。
写真史における立ち位置。アンリ=カルティエ=ブレッソンやロバート=キャパ、木村伊兵衛、土門拳などの有名な写真家が愛用したという事実。ストリートスナップという写真ジャンル確立への功績。
等々、ライカにはカメラ自身の情報よりも、その周辺部に広がるあらゆる伝説がとにかく多すぎて、ディグってゆくうちに、それを手にせずにはいられなくなってしまうのだ。
さらに手にせずともこれらの伝説をディグっているだけで、何かを知ってそれを考えずにはいられない脳の知的好奇心の充足を成し遂げることができる。ライカを知ることは、(それがあまりに伝説的なので)もはやカメラを知ることであり、写真を知ることである、とまで言えるのだ。
この深淵なるディグリティーこそが、ライカ欲しい病が治らない理由なのではないか、と考えている。
まとめ
筆者の場合、ライカ欲しい病はライカ社やそれを愛用するネットのインフルエンサーどもの巧妙なブランディングの成果による所有欲だけに起因しているようではなさそうだ。やはりライカという巨人にどっぷりとオタクのように使ってしまい、知的好奇心をそそられてたからこそ、ライカが欲しくなるのだ。
そういえば今習っているフィリピノ語では「欲しい」と「好き」は同じgustoという疑似動詞で表現される。私は高らかに叫ぼうと思う。
Gusto ko ng Leica! (私はライカが好きだし欲しい!)
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